slides: ベンヤミンをファシリテーション文脈で照射する試み
これはファシリテーショントレーニング20240331会案内の投影資料の一部です メニューのStart presentationで、このページはスライドになります
ベンヤミンをファシリテーション文脈で照射する試み
なんだか関連がありそうな気がするのですterang.icon
なのでこの機会に整理しつつ検討したい
ここでみんなと検討した結果、もしかするとファシリテーションとあんまし関係ないことがわかるかもしれない🙏
ベンヤミン.icon
ベンヤミン周りでよく言及されるテーマ
パサージュ.icon
歩道の整備がない時代、フランス革命で解放された敷地と建物の小道(パサージュ)に次々と店が開店した パリ住民や旅行客の夢を誘った
ベンヤミン.iconはパリのパサージュを歩きながら、「目に映ったことから想起する様々な感覚や問題に対して引用文をあてて並べる」という手法で表現した
まるで小径に並ぶ商店の配列のように、引用文が並ぶ
https://gyazo.com/c73de2b6817a4a77c51dce79afc1f8c2https://gyazo.com/66bfcec7fe1eff0a4b70b84e2ecde790https://gyazo.com/2a38a879395a9708109f8b15bc9b13d9https://gyazo.com/93ce48f856dcae2deb22ff4aca73cb17
法は、「ルール」と置き換えてもいいと思うterang.icon 自然界では動物は生きるために暴力を行使する:自然的暴力 自分が生きるために餌を殺して食べても罰せられない
手続きが正しければ隣国への武力行使という目的は「正しいこと」となる
説明のためにベンヤミン.iconは暴力の区別の仕方を変える
法措定の根源は自然法にある
さらに戦勝国がその土地の法を塗り替えていく
同時に発生するのは法を維持しようとする力
法を破った者を、刑罰という名の暴力で、排除・矯正する
それは〈違法〉(戦勝国の法では)
戦勝国が戦争時に用いた(敗戦国側にとっては理不尽な)法措定的暴力は、そのまま法を維持する権力へ移行し、「秩序の維持」の名の下に、法維持的暴力が(警察機構が)力を執行する。 ベンヤミン.iconは、
…らしいがこの辺はまだあんまりよくわかっていないterang.icon
どなたか詳しい人いたら教えてください
オーラ
楽観論と悲観論
写真、映画のよさ
アウラのベンヤミン.iconの楽観論
一見他と同じなんでもない石ころに、礼拝的、宗教的、祭祀的価値があることがアウラ性
なんだかオーラがある石ころ
複製技術は、「そこに赴かないと見られない」といった一回性、神秘性、いまここ性を崩壊させた 展示価値というのは、アート作品からアウラが失われ投機対象になった的な意味 なんだかオーラがある石ころの完璧な複製を製造できるようになったがゆえに、完璧であればあるほど、大量生産品として安価となり、消費の対象となる。 ハンドメイド品を買うお金に余裕のある消費者は、オリジナルに対する不完全さゆえにハンドメイド(お手製)に価値を見出す。
何がよさなのか?なぜ楽観論?
例えば写真は、レンズでの拡大やスロウモーションなどの操作で、我々の知覚を超えて、オリジナルの特定の側面を強調できる
しかし写真は元来無意識であったその姿勢を、眼(視覚)によって初めて露わにする
これは抑圧されていた無意識が精神分析によって意識化される構造と同様(フロイト) プロパガンダとして利用された
アウラのベンヤミン.iconの悲観論
反復と複製は別
〈反復〉は
歴史の中で〈常に同一なるもの〉への永劫回帰を続けることになる
〈再生産〉は
熱狂した大衆の動きを、カメラによってより熱狂するよう演出化された映画作品として上映し、大衆へ反復的に見せる。
こういうナルシスティックな循環の創出にナチスは成功した。 むしろ復活させてしまった現象
ベンヤミン周りでよく言及されるテーマ(再掲)
ベンヤミン.iconの中でこれらは何がどう関連していたのだろう?terang.icon
ベンヤミン.iconのテーマを無理くりまとめてみるterang.icon
法には自然的目的の追求権を独占しようとする傾向がある
ベンヤミン.iconは、「しかもそこに、なんらか目的のためではなく、法自体を保持しようという意図で説明できるのではないか」と注意を促す
労働者の賃上げのストは違法ではないが、国家を転覆せんとするストは違法
〈生命の尊さ〉が法≒暴力の始まり
ここでの生命とは、単に肉体的に生きている状態。政治的でもなければ宗教的でもない。
何かを成し遂げたから尊いのでもないし、何か崇高な目的があるから尊いのでもない
単なる生物学的な事実
生きているという点で、人間も動植物も変わらない
ではなぜ人間の方が
動物や植物や虫やウィルスなどよりも
尊いといえるか?
これは合理的に説明できない。ただ信仰に支えられているのみ。つまりは宗教。 ここでアウラとはなんだったか?
ベンヤミン.iconのアウラへの言及
アウラの定義は、どんなに近距離にあっても近づくことができないユニークな現象、ということである。ある夏の日の午後、ねそべったまま、地平線をかぎる山なみや、影を投げかける樹の枝を眼で追うーーこれが山なみの、あるいは樹の枝のアウラを呼吸することである。『複製技術時代の芸術』 p.17 このアウラを、我々はなぜ「わかる」ことができるのか?
「わかる」という心の運動は次の瞬間、「納得」という平穏に落ち着く
(脱線)まあローティは「人権は役立たない。人じゃないから」とは言っているが… アウラが世俗化すると宗教となる
しかし複製技術がアウラを奪った
「暴力批判」「パサージュ論」「アウラ」が直線上に並ぶ。